深夜急行【お試し版】
◆ 1
 数年後にはきっと死語になっているだろう。あまり使いたくないが、こういう時に使いたくなる言葉に違いない。
 マジムカツク。
 もちろん授業中なので、口に出しては言えやしない。だが、授業開始直後にうつらうつらと揺れ出したショートヘアの頭を睨みつけながら、何度呟いたことだろう。
 一瀬未晴という存在は、俺にとってこの上なくはた迷惑な存在だった。
 まずは成績がいいことだ。調子が良ければ学年十位以内。悪くても三十位以内には収まってる。始末が悪いのは、数学だけが壊滅的な成績にも係わらずということだ。
 ちなみに一瀬は三年生の二学期を迎えても、まだ進路が決まっていないらしい。
「三浦、お前からも少し言ってくれないか」
 と担任の五十嵐は言う。だが、生徒の進路指導は教師の仕事であって、クラス委員の仕事ではないはずだ。
 教師だったら自分でどうにかしてくれと思うが、内申に響くかもしれないという計算がつい働いてしまうのも事実。つい「わかりました」と笑顔で答えてしまう自分が堪らなく情けない。
「おい」
 彼女の席は、俺の真ん前だ。嫌でも視界に入ってきてしまう位置である。授業が終わり昼休みが始まっても、相変わらず机に突っ伏して居眠りを続ける。
「いい加減起きろ」
 ごん、と机に拳をぶつける。振動で目を覚ました一瀬は、まるで漫画みたいに勢いよく飛び起きた。
「え、あっ、ごめんなさい、わかりませんっ!」
 一瞬、辺りがしーんと静まり返る。しかし、すぐに何事もなかったかのように、教室内はいつものざわめいた空気を取り戻す。
 一瀬は振り向くと。
「もしかして……授業、終わっちゃった?」と訊ねる。
「とっくにだよ」
「あはは、やっちゃった」
 照れたように笑いながら、一瀬はこめかみを掻いた。
 この莫迦が……。
 時々、こいつを見ていると苛々する。だが、その理由はわからない。
 やれやれと、席を移動しようと腰を浮かした時だった。
「三浦くん、お願い!」
 突然、でかい声で呼び止めた一瀬は、両手をぱんと顔の前で合わせた。
「さっきの数学のノート貸して下さい!」
 お願いします! と俺を拝む。
 これ以上、俺に関わるな。
 喉まで出掛かった言葉をかろうじて飲み下す。代わりに大きなため息をつき、机の中から大学ノートを取り出した。
「ほら」
「ありがとう」
 うやうやしく俺のノートを受け取ると、「恩に切ります」と深々と頭を下げた。
 このまま席を立って、さっさと教室を退散したいところだが、担任に頼まれていた件を思い出す。嫌なことはさっさと終わらせてしまった方がいい。
「あのさ」
 何故か自分の机ではなく、俺の机の上でノートを写し始める一瀬に、俺は二度目のため息をついた。
「いちいち書き写さないで、コピーでも取れば? ノートは明日返してくれればいいからさ」
 ちまちまとシャープペンで書き写すよりも、その方が手間が掛からなくていいと思うのだが。
 しかし、一瀬が言うには。
「ううん。あたし手書きが好きなの」
 なんて非効率な。だが自分で書き写した方が、頭に入りやすいのも事実だ。
 まあいい。本題に入って、さっさと終わらせよう。
「五十嵐先生がさ、言ってたんだけど」
「何を?」
 返事をしつつも、一瀬は一心不乱にシャープペンを走らせている。
「さっさと進路を決めろってさ」
「大丈夫、ちゃんと決まってるよ」
 思わず「え?」と聞き返していた。すると一瀬はしきりに動かしていた手を止めて、真っ直ぐに顔を上げる。
「三上くん、『深夜特急』って知ってる?」
 突然何を言い出すかと思えば。
「沢木、耕太郎の?」
「そうそう」
 読んだことはないが、ずいぶん前に出版されたルポタージュだったはずだ。筆者が各国を貧乏旅行をしている時の体験談のようなものだった……と思う。読んでないからよくわからないが。
「あたしね、高校卒業したら『深夜特急』の旅をするんだ」
「ああ?」
「深夜特急の主人公みたいに、世界中を旅して巡るの」
 でも、先生はこんなんじゃ駄目って言うんだよね。と困ったように肩をすくめる。
「あー…………そう」
 なるほど。ある意味納得した。そりゃ五十嵐も反対するわけだ。せっかく成績もそこそこいいのだから大学受験を進めたいのだろう。
 しかし、こいつがどんな進路を選ぼうと、俺の知ったこっちゃない。
 俺は今度こそ、一目散に教室を後にした。




◇ 2
 あーあ。怒っちゃった。
 あたしはシャープペンで頭を掻くと、こっそりとため息をついた。
 どうやら三浦くんには、相当嫌われてしまったらしい。以前は普通に話もしていたのに、と思うと悲しくなる。きっと知らず知らずのうちに彼の地雷を踏んでしまったに違いない。でも、それが何なのか、あたしにはわからない。
 わからないってことは、やっぱり駄目っってことなんだろうなって思う。だけど、前みたいに話せるようになったらいいのになって思うのは、あたしの希望でしかない。
 手元のノートを見下ろすと、目に飛び込んでくるのは丁寧に書かれた数式や走り書き。けしてきれいな字じゃないけど、読みやすいよう丁寧に書かれている。先生のちょっとした話も、ちゃんと書き込んであるのが三浦くんらしい。
 三浦くんの真面目さが滲み出てくるようなノート。じっと眺めながら、書き写す作業がどんなに楽しいか、きっと彼は知らない。
 ふいに、ぐうっとお腹の虫が鳴った。
 気がつくと、皆それぞれグループを作ってお昼ごはんを食べている。机をくっつけ合っていたり、ひとつの机に所狭しとお弁当を並べたり。女の子たちは楽しげな声を立てながら、小さなお弁当箱を突っついている。男の子は何が面白いのか、数人で輪を作っているにも係わらず、めいめい雑誌を広げていたり、ヘッドフォンで音楽を聴いていたり、必死に携帯でゲームをやっている子もいる。
 そろそろお昼にしようかな。
 机の横に引っ掛けたバックを手にして、賑やかな教室を後にした。あたしが向かうのは、この学校にある図書室だ。
 昼間は陽が指さない北校舎の一階に、図書室はある。あたしは、図書室入口の手前にある、司書室のドアを軽くノックした。
「失礼しまーす」
「あら、いらっしゃい」
 机の周りに詰まれた書類の陰から顔を出したのは、司書の天野さん。図書委員なのをいいことに、しょっちゅう図書室に入り浸っているうちに天野さんとも仲良くなり、しまいには司書室にまで入り浸るようになってしまった。
「天野さーん……」
「え、えーと、これはね……」
 彼女の手には、食べかけのコンビニのプリンがしっかりと握られていた。最近太っちゃって、と割と深刻そうに話していたのはつい最近だ。しかし、どうやらその原因が三十歳を過ぎたからだけではなさそうだと判明してしまった。
「ちょっと疲れ気味だから糖分を補給と思って……さ」
 少しばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。
「ごはん食べた後だから、大丈夫よね?」
「さあ、どうでしょう」
「もう、意地悪だなあ」
 天野さんは少し膨れて、残りのプリンを口に運び始めた。ニコニコしながら食べている。この分だと天野さんのダイエットへの道は、少々険しいようだ。
「ここの椅子借りますね」
 手近にある適当な椅子に座って、天野さんの近くににじり寄り、バックから取り出したお弁当箱を膝の上で広げた。
「鶏唐かあ。でも、何と言うか……迫力のあるお弁当だわ」
 天野さんはあたしのお弁当箱を覗き込むなり、しみじみと呟いた。あたしのお弁当はご飯と鳥の唐揚げだけが占領している。運動部の男の子みたいなお弁当だ。
「作ってくれたの、お父さんとかお兄さん?」
「ううん。自分で作ったの、食べます?」
 お弁当箱を差し出すと、とんでもないとは大きく首を振った。
「ううん。今ダイエット中だからお肉は控えてるの!」
 だったらプリンとかを控えた方がいいのでは? と思ったけれど、敢えて突っ込むのはやめておいた。
 いただきまーす、と手を合わせ、さっそく鶏の唐揚げから口に運んだ。
 うん。美味しい。大蒜の味付けが利いていて、お肉も冷めていても柔らかくてしっとりしている。最近の冷凍食品は良くできているなと、感心してしまう。
 鶏の唐揚げは、お母さんの得意料理のひとつだ。でも残念ながら、お母さん特製の唐揚げは、お兄ちゃんが家にいる時にしか振舞われない。
 お母さんの鶏唐を食べたのは、もうどれくらい前だろう。
 あたしは頭をひねりながら、もうひとつ唐揚げを頬張った。
 ああそうだ。あたしの中学校の、ちょうど卒業式の日だったっけ。唐揚げを咀嚼しながら思い出した。
 あたしの卒業式と、お兄ちゃんの一時退院の日がちょうど重なった時だった。一応あたしの卒業と、お兄ちゃんの退院のお祝いだった。お兄ちゃんの留年が決まったのもちょうどその頃だったから、家族の間では学校に係わる話題を控えなくてはという、暗黙の了解のようなものができていた。
 当然その夜のお祝いは、あたしの卒業よりも、お兄ちゃんの退院がメインになったのは言うまでもない。
 浮かれていた気持ちはすっかり冷めて、そんな浮かれていた自分が莫迦みたいに思えてきた。
 ずるい!
 その日の夜、お母さんにそう訴えた覚えがある。
 お兄ちゃんばかりずるい、と。あたしのこと忘れないでよ、と。すると。
「あなたって子は、どうして自分のことばかりしか考えられないの?」
 お母さんの言葉に、あたしは凍りついた。
 お母さんの言い分はこうだ。お兄ちゃんは小さい頃から心臓が弱くて、何度も入退院を繰り替えしてきて苦労してきているのに。学校だって行きたくたって行けないお兄ちゃんの前で、自分が志望校に合格したからって手放しで喜ぶなんて、どうしたらそんな酷いことができるのと。
「お母さんは、あなたをそんな思いやりのない子に育てた憶えはないのに……あなたはお兄ちゃんの気持ちを考えたことがある?」
 何も言い返せなかった。お母さんの静かで、まるで責めるような言葉を、ただ黙って聴いていた。
 行きたい高校に合格したと喜んじゃいけないんだ。
 ――それはお兄ちゃんが、できなかったことだから。
 あたしは自分のことばかりしか考えられない、心の冷たい人間なのだろうか……?
 最後の唐揚げを口の中に放り込むと、冷たいお茶で流し込んだ。

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