夕暮れの流星【お試し版】

 吉田輝彦は橋の欄干にすがり、曇った街並みを眺めていた。ホコリのような霧雨が音もなく降り、髪やスーツにびっしりと小さな水滴をつくっていた。傘をさす気力もなかった。雨で白く煙った街並みも、平日の土手を走り抜けていく青い車も、視界に入るものすべてが色あせた写真のように見えた。
 上司に呼び出され、解雇を言い渡されたのは昨日のことだ。
 早期退職の張り紙を見る前から経営の悪化にはうすうす気付いていた。それでも三十一歳の自分には関係のないことだと考えていた。関係あるのは六十近いじいさんばかりだ。毎日の仕事をこなしていれば問題ない、と。
 しかし、その考えは間違っていたらしい。業績はさらに悪化し、歯止めがきかなくなった。
 経営陣は何をしているのか。このままでは会社が潰れるのではないか。
 危惧していると、上司から呼び出され、解雇を言い渡された。
 決定を告げる上司の『会社のために仕方がない』と言いたげな顔を、この時ばかりは殴ってやりたいと思った。辞めるべき人は他にもいた。なのに、なぜ自分が……! しかし、怒りをぶつけることさえできない自分が不甲斐なくもあった。会社が傾いていたとはいえ、不要の烙印をおされたのだ。情けないやら悔しいやら。
 その夜はリストラで頭が重く、妻に打ち明けられずに眠った。
 そして今朝のことだ。リビングへ行くと、いつもは寝ているはずの妻が早起きしていた。
「おはよう」と声をかけると、少し間があって「おはよう」と返してくる。
 よそよそしい様子にどうしたのだろうと思いつつ、いつものようにテレビをつけた。そうして天気予報やニュースを見る。毎朝続けてきたことだ。しかし、内容は一つも頭に入ってこない。リストラで頭がいっぱいなのだ。
 なんとなくテレビを消した。そして深く考えた。
 一ヶ月足らずで働く場所がなくなるのだ。妻に隠し通せるとも思えない。それなら綺麗さっぱりと打ち明けて職を探す方が建設的である。不安がらせてはいけない。次の職を見つけるのだと堂々とした態度で打ち明けたい。そして、『一緒にがんばりましょう』と妻の応援があれば百人力だ。
 思い切って声をかけようとすると、意外にも妻の方から近づいてきた。
「大事な話があるの」
 いつになく真剣な様子に輝彦は眉根を寄せる。
「何か悪いことでも?」
 妻はためらうような顔をして、「ええ、あなたにとってはそうかもね」と答えた。
 ん、と思った。妻には悪い癖があった。欲しい物はすぐに買うし、やりたい事はすぐにやる。服とか旅行とか見つけてきてお金がかかるとでも言うのだろうか。こちらはリストラにあって収入源が無くなるというのに……。
 まぁ、いい。ここはひとまず妻の話を聞こう。それからリストラの話をすれば、妻も諦めてくれるはずだ。
「なんだ。言ってくれ」堂々とした態度で言う。
「わかったわ」妻は意を決したように自分のカバンをあさり、食卓に戻ってきた。
「これにサインして」
 一枚の用紙を食卓に置き、その上にボールペンを置いた。輝彦は眼鏡をかけて紙面をのぞきこむ。
 今度は何だ? フィットネスか? それとも高額なローンか?
「離婚届!?」
 目が飛び出すとはこのことだろう。誇張されたマンガだったら、飛び出した眼球が眼鏡を突き破って食卓に突き刺さっているところだ。いや、今はそれどころの話ではない。
「おまえ、なんで、えぇ!?」
 頭の中がパニックになっていた。リストラと離婚が同時に襲ってきたのだ。爆弾と爆弾が頭上で鉢合わせしたようなものだ。爆風がおさまるまでかなりの時間が必要だった。そして、残ったのは消し炭のような自我だけだった。茫然とした頭で離婚届を見詰めていると、いたたまれなくなった。
「考えさせてくれ」
 絞りだすように言って離婚届を手にし、家を出るのが精一杯だった。
 
 
 そうして今に至る。
 どんよりとした雨雲の下、通りかかる人々は、霧雨で真っ白になった輝彦に奇異の視線を向けるものの、心配して声をかけることはなかった。
 都会の人間とはこのようなものだ。関係ないことには触れない。タバコのポイ捨てが悪いとわかっていても注意する人は少ない。ましてや目的地に向かうのに、道ばたに落ちている吸い殻を拾ってまわる人はいないだろう。他の誰かがすると思っている。それは輝彦も同じだった。
 そう考えると、自分をふくめてどうでもよい世界に思えてくるのだ。
「何してんだよおっさん」
 冷めた気持ちで濁流を見下ろしていた。降り続けた雨で水かさが増して流れも速くなっていた。ふくれあがった川面は、まるで蛇の群れが先を競っているようだ。もしも、橋から落ちて流されたとしたら助けにきてくれる人はいるのだろうか。
「おい、おっさん」
「おわっ」
 耳元からの声に飛び退いた。振り向くと、三人組の男達がいた。
 自分の世界に閉じこもっていたので周りに注意を払っていなかった。そもそも誰かに声をかけられるとは思っていなかった。こんな冷たい世の中でも心配して声をかけてくれる人がいるのか。うれしいような、照れくさい気持ちになった。
「やっと気付いたぜ」三人組の男達はへらへらと笑い合った。
 輝彦は首をかしげた。
 心配で声をかけたにしては様子がおかしい。お互いの認識に齟齬を感じた。
 ………、まさか。
 カツアゲだと気付いた時には遅かった。三人組の一人が肩に腕を回してきて逃げられないようにしてくる。
「俺達、金に困っててさ。ちょっと貸してくんないかな。一万でいいから一万で」
『何を馬鹿な。こっちは人生に困ってるんだ。空気を読め、空気を』
 もちろん口には出せないので、せり上がってくる言葉をのどでたたき落とした。が、次の瞬間にはその余裕すら消えた。別の男が脅すようにバタフライナイフをもてあそび始めたのだ。チャ、チャリ、チャ、チャリ……。男の手中で鋭利な刃が見え隠れする。
 手慣れていた。下手な抵抗はそれこそ命を落としそうだった。
「ちょっとこっち来いよ」
 がっちりと両脇を固められたまま輝彦は橋の下へと連れて行かれた。
 橋の下は遊歩道のある河川敷になっていた。晴れた日はランニングする人や散歩する人でそれなりに人通りがあるところだ。しかし今は雨が降り、誰の姿もなかった。
 三人組の若者は輝彦を橋桁へと追いやり、取り囲むように陣取った。
「おい、早く財布出せよ。こっちもそんなに暇じゃねぇんだ」
 輝彦は少しためらった。財布には三万を越える現金が入っていた。一介のサラリーマンでしかない、それも失職する輝彦からすれば安いと言える額ではない。
 そのためらいが気に触ったのだろう。とつぜんみぞおちを殴られた。
「ぅぅ……」息が詰まり、声にもならない声が出た。身体が熱くなり、汗が出るのがわかった。輝彦は腹をかばって背中を丸めながら「ま、待て」と精一杯に言った。
「さっきから待ってんだよ」
「わ、わかった。出すから……」
 抵抗は無理だと思い、殴られないようにと気を張り詰めながら財布に手を伸ばした。その時だ。
「待ちな。出す必要はねぇぜ」
 しわがれた渋声に呼び止められた。その声には年季が入っていた。そして、若者の無理な脅し声とは違う、腹の底から震えがくるような凄みがあった。若者達は一様に背筋を硬直させたが、それを恥じて怒りの形相で振り返った。
「なんだてめぇ!」
 輝彦も顔を上げて若者達と同じ方向を見た。視線の先にいたのは小柄なじいさんだった。白髪を短く刈り上げ、目はどう猛な肉食獣のように爛々と輝き、褐色に日焼けした腕には無数の血管が浮いていた。異様な空気をまとったじいさんだが、頭に血をのぼらせた若者は怖いもの知らずになっていた。
「関係ないやつが茶々いれんじゃねぇよ」
 怒鳴りながらじいさんに詰め寄っていく。最近の若者は身長が高い。じいさんと比べたらゆうに頭二つは高いだろう。その長身から殴りかかろうとした。
 危ない! そう思った瞬間、じいさんの姿が消えた。いや、若者のふところに飛び込んだのだ。そのまま襟首をつかむと、引き寄せるようにして背中から地面に転がり、若者の腰を足の裏で押し上げた。若者の身体が宙に舞って、背中から川に落ち、派手な水しぶきを上げた。

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