アヒルの木【お試し版】

「みっしー!」
 終業のチャイムが鳴ってから数分後、ざわつく教室に響く声に、三嶋千里は顔を上げた。 後ろの出入り口から、小柄な少女が教室に入って来る。隣のクラスの澤田梨花だ。フワフワした髪を揺らしながら、千里の方にやってくる。
 放課後と言っても授業が終わったばかりで、クラスメイトのほとんどは教室に残っている。そこに何の躊躇もなく足を踏み入れる友人に、千里は思わず微笑んだ。
 この学校に転校してから一ヶ月ちょっと。高校二年生の二学期という中途半端な時期に編入してきた千里が、クラスに何とか馴染めたのは梨花のおかげである。
 ジャンケンで負けてなった美化委員。その最初の集まりで席が隣だったのがきっかけだ。それ以来ちょくちょく話すようになり、顔の広い梨花を通して千里の交友関係も少しずつ広がっていった。
 クラスでも仲のいい友達はできたが、一番はやはり梨花だ。何もない日はいつも彼女と一緒に帰っている。
 それにしても、今日は迎えに来るのがずいぶんと早い。千里の机の上には教科書やノートが出たままだが、梨花はすでにカバンを持っている。
(何かあったのかな?)
 不思議に思っていると、
「みっしー、ゴメン!」
 重いカバンを持ちながら、器用に顔の前で手を合わせた梨花が頭を下げた。
「部活でね、文化祭の準備が結構忙しくなっちゃって、しばらく一緒に帰れそうもないの。悪いけど、文化祭が終わるまで先に帰っていてくれる?」
 梨花が入っているのは美術部だ。この時期に文化系の部が忙しいのは、どこの高校でも一緒のようである。
「気にしないで。こっちも準備があるし」
 とは言え、文化祭までまだ三週間あるせいか、千里のクラスはどこかのんびりムードだ。少しずつ準備を進めているものの、今日は何もなく解散である。
「美術部も大変だね」
「まあ、ね」
 えへへ、と頭をかく梨花に、
「特にあんたは、でしょ」
 と、同じクラスの紀原詠子が話しかけてくる。女子にしては背の高い彼女も、梨花を通じて仲良くなったクラスメイトの一人であり、梨花と同じ美術部だ。
「どういうこと?」
 千里が聞くと梨花は目をそらし、詠子は大きくため息をついた。
「こいつね、文化祭の『看板』にまだ全然手を付けてないのよ」
「看板?」
「ああ、三嶋さんは知らないか。うちの美術部ね、毎年一人一枚ずつ文化祭のテーマに沿った絵を描くんだ。大きさはだいたいベニヤ板一枚分。それを校内のあちこちに飾るから『看板』って呼ばれてるんだ」
「そうなんだ。見るのが楽しみ。でも、ずいぶん早くから作るんだね」
「描くのはうちら美術部だけど、飾るのは文化祭実行委員なのよ。完成した絵を見て飾る場所を決めるから、来週ぐらいにはある程度できていないとマズいんだけど……」
「だって、『さらなる飛躍』なんてテーマ、難しすぎるんだもん。花とか猫とか、もっと具体的なものにしてくれたらいいのに」
 梨花は口を尖らすが、文化祭のテーマとしてそれはどうかと思う。
「土曜日までにデザイン決めてよ。で、日曜日は一日美術室で絵を描く。いい?」
「土曜日って、明後日? そんなの無理だよ〜」
「今まで時間があったのに手をつけなかったのはあんたよ。文句は言わない。ほら、さっさと美術室に行くよ」
「……はーい」
 梨花はうなだれて詠子の後に続く。暗く沈んだ後ろ姿に、千里は声をかけた。
「梨花ちゃん、頑張ってね」
「うん。ありが……きゃあっ!」
 ふり返った梨花の姿が、叫び声とともに消えた。ガタンッと机が倒れる大きな音に、教室中のクラスメイトが何事かと顔を向ける。
「り、梨花ちゃん?」
「何やってんのよ、あんた!」
 転んだ梨花のもとに、千里と詠子はあわてて駆け寄った。梨花のすぐ横には机が一つ倒れていたが、どうやら当たらなかったようだ。膝をさすりながら起き上がる姿に、千里はホッと胸をなで下ろした。
「梨花ちゃん、大丈夫?」
「平気平気。ちょっとカバンが引っかかっただけだから……って、あれ?」
 梨花がカバンを持ち上げようとすると、横で倒れている机がズズッと動く。覗き込むと、カバンにぶら下がっている御守りが、机の脇にあるカバン掛けに引っかかっていた。
「あれ? ウソ! 取れない?」
 梨花は何度も引っ張るが、御守りの紐が深く食い込んでいるのか、外れる気配はない。
「紐を切ればいいんじゃないの?」
 あっさり言い放つ詠子に、「そんなぁ〜」と梨花は今にも泣き出しそうな顔になる。
「大丈夫だよ、梨花ちゃん。別の方向から引っ張れば、きっと……」
 千里も一緒に引っ張ってみるが、結果は変わらなかった。しばらく見ていた詠子が「しょうがないわね」と側にしゃがみ込む。
「ただ引っ張ってるだけじゃ無理よ。ほら、貸してみな」
 詠子が御守りと机のカバン掛けに手をかける。どういう風に力を入れたのかわからなかったが、ビクともしなかった御守りの紐は机からあっさり外れた。
「ほら。取れたよ」
「詠ちゃん、ありがとう〜!」
「こら、抱きつくな。暑苦しいっ」
 押しのけられても、梨花は笑顔のままだ。「よかったぁ〜」と言いながら、カバンごと御守りに頬ずりをする。
 その様子に、千里は思わず微笑んだ。
 端から見れば、御守り一つに何をそんな大騒ぎしているのだろうと眉をひそめるかもしれない。けれど、梨花にとってはかけがえのない物なのだろう。
「それ、大切な御守りなんだね」
 千里がそう言うと、梨花は大きくうなずいた。
「うん! だって、この御守りにあたしの将来がかかっているんだもの!」
 途端に話の雲行きがあやしくなる。
「あのね、これ恋愛成就の御守りなんだ。二つでセットになっていて、こっちのピンク色が女性用、水色が男性用なの」
 梨花がカバンの横にぶら下がった御守りを指さした。外そうとした時には気づかなかったが、二つの御守り袋には確かに「恋愛成就」の文字がある。
「この御守りを持っている二人は、将来必ず結ばれて幸せになるんだよ」
 それで「将来がかかっている」というわけらしい。
 それにしても変わった御守りだった。水色の方は普通よりもやや厚い程度だが、ピンク色の御守り袋は妙にふくらんでいる。まるで中にビー玉か何かが入っているようだ。
 千里の視線に気づいた梨花がニコリと笑った。
「やっぱ気になるでしょう。実はね、ピンク色の御守りの中には銀杏の実が入ってるんだよ」
「銀杏の実って、ギンナン? 本当?」
 確かに袋のふくらみはそれぐらいの大きさだが、御守り袋にギンナンを入れるなんて聞いたことがない。
「何でギンナンなの?」
「それは、ここの神社にある『夫婦銀杏』に恋愛成就の御利益があるからなんだよ。夫婦銀杏の下で好きな人に告白すると成功するって話だし、夫婦銀杏の実を庭に埋めて芽が出たら恋が叶うって、うちのおばあちゃんも言ってたんだから」
 それに、と梨花は隣の詠子を見上げる。

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