銀杏夜話【お試し版】

「おまえ、本当に俺のこと好きなの?」
 その一言の方が、「別れよう」という言葉よりもずっと深くわたしの心に突き刺さった。大きくえぐられたわけではないけれど、存在を無視することのできない傷を残していった。わたしが普段気づかないふりしている部分にまで届いてしまったから。
 わたしはわたしなりに、精一杯彼のことが好きだった。でも、「別れよう」という言葉よりもその一言に傷ついているくらいだから、彼がそんな疑念を持つのも仕方がなかったのかもしれない。


 ――仕方がなかったのかもしれないが、つき合っていた頃から二股していた男が「本当に俺のこと好きなの?」なんてセリフをぬけぬけと言う資格などあっただろうか。いや、断じてない。


「あんただってわたしのことホントに好きだったのかってんだ。バカヤロー!」
 ジョッキの三分の一ほど残ったビールを一気に流し込むと、静香はそれを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「はいはい、そうよね。静香の言うことはもっともだわ」
 テーブルを囲む友人のひとりが、少々ろれつが回らなくなってきている静香をあしらうような相づちを返してきた。
「そもそも人のことろくに名前で呼びやしないで、最後まで『おまえ』呼ばわりだし。わたしには寺島静香っていう立派な名前があるのよ。彼女の名前ぐらいちゃんと呼べよ!」
 静香は握り締めた割り箸を、怒りにまかせて厚焼き卵焼きに突き刺す。
「うっかり浮気相手の名前で呼んだらまずいからだったんじゃない?」
 別の友の鋭い意見に静香は目をぱちくりとさせる。そして、あっという顔をしてから机に突っ伏した。
「なんで気づかなかったんだろう! 悔しいぃ!」
「忘れることよ。あんな男のことはさっさと忘れて、次の恋を見つけるのよ」
「次はきっと、静香のこと大事にしてくれる人が見つかるって」
「うん、そうだね。みんな、いいこと言うわ。――よし、もっと飲もう!」
 顔を上げた静香は、注文のために呼び鈴を押す。
 思いの外あっさりとしている静香を、友人たちが少し呆れた目で見ていたことに彼女は気づいていなかった。

      ○

 耳元で小さな音をたてて風が吹き抜け、静香は身震いした。
 アルコールがだいぶ入ってほてってはいるが、夜は冷える。商店街からここへ来る途中にあった並木のイチョウの葉は、どれもすっかり黄色に変わっていた。秋はそれくらい深まっている。寒いはずだ。
 だけど身体的にだけでなく心までも寒い気がするのは、きっと失恋して間もないせいだ。
 ふられた憂さを晴らすため、友人を巻き込んで先程まで居酒屋でヤケ酒をあおっていたのだが、終電前にお開きとなった。友人たちとはお店の前で別れ、静香は迎えに来てくれる兄を待つため、神社の前へ移動していた。居酒屋のある駅前の商店街は、車両進入禁止なのだ。
 商店街と神社はそれほど離れていないし、神社の前は道幅があって車を寄せやすい。駅周辺に用事があって出掛けたとき迎えに来てもらう、なじみの待ち合わせ場所だった。
 兄に携帯電話で迎えを頼んだのは五分ほど前。「こんな遅い時間に人を使うな」などと電話口で一通り文句を言うものの、ちゃんと来てくれるのだからありがたい。それでも、待つ身としては五分とは言え長く感じるのは事実だ。
 自宅からだと、まだあと十分は待たねばならない。それまでぼけっと突っ立って待っているのも暇だ。
 静香はやや覚束ない足どりで鳥居をくぐった。兄が来るまで境内を歩こう。ほろ酔いの二段階ほど上の状態である静香を見たら「フラフラになるまで飲むな」と兄が口うるさく言うだろうから、酔い覚ましをしておくのだ。
 もうすぐ日付が変わろうとしている境内は、当然だが人気はなかった。ぽつんぽつんといくつかある照明はその足元と、社務所や拝殿、その後ろにある本殿などの建物を夜の中にぼんやりと浮かび上がらせている。しかしこの薄暗い景色の中でもはっきりとした存在感を放っているのは、拝殿のすぐそばにある大きな二本のイチョウだった。どちらも樹齢数百年になるという神社のご神木で、寄り添うように生えている。夫婦銀杏と呼ばれている、雄株と雌株だ。拝殿のそばにある照明では、そのてっぺんまで照らすことはできていない。それくらいに二本とも背が高い。
 静香は夫婦銀杏から、拝殿、後ろにある本殿、更にその向こうにある建物に視線を移していった。
 本殿の向こうには、味気ない箱のような建物が黒々とそびえている。神社の背景には似つかわしくないように見えるが、仕方のないことだろう。
 神社の裏手にあるのは高校だ。そこは静香の母校でもあった。卒業して二年、母校の校舎を見ても「懐かしい」と思わないのは、ここで迎えを待つ間、何気なく眺めていることが多いからだろう。
 本殿の裏には神社と学校の境界を示す柵があるのだが、その柵の一部が人ひとりがくぐり抜けられるくらいに壊れている。昔から壊れているらしく、今もたぶん修理されていない。
 静香の通っていた高校には、境内にある夫婦銀杏の下に意中の相手を呼び出して告白すれば成功する、というジンクスがあった。その由来は、神社で売っている恋愛成就のお守りにあるらしい。
 静香も、そのジンクスを実践したことがある。
 高校一年生最後の日、同じクラスにいた好きな男子を夫婦銀杏の下に呼び出して告白したのだ。静香の想いは彼に通じて晴れて交際することになり、その日は嬉しくて何時になってもなかなか寝つけなかった。――その後、二年生の夏を迎える前にふられてしまったが。
(告白する前の日、お守り買ったんだっけ)
 この神社ではご神木である銀杏の実を乾燥させたものが小さな袋に入れられお守りとして売られているのだが、それは女性用。男性用もちゃんとあって、そちらには雄株の枝が入っている。夫婦銀杏の一部を使っているから、恋愛成就のお守りというわけである。
 そのお守りを持って告白すれば成功率がますます上がると聞いて、静香は買い求めたのだ。告白したあと、彼も男性用のお守りを買って、これからよろしくと言って二人して照れたことを思い出す。
 あのお守りは、今はどこへいっただろう。交際は半年も続かず悲しい思いをしたが、お守りは捨てられずに取っておいた……はず。確か引き出しの奥深くに入れて、そのままだった。
 捨てられなかったのは、初恋ではないが初めてできた彼氏だったからだ。それから数人とつき合ったり別れたりを繰り返していくうち、初めての彼氏にまつわる思い出の品は記憶の奥底へ追いやられたのだろう。
 ふられたあとはしばらくへこんでいて、この神社に近寄ることも、ご神木を視界に入れることもいやになっていたのに、今はもうすっかり平気になっている。失恋の痛手は時の流れが癒やしてくれるものなのだ。今度のことだっていずれ傷は癒え、痛みも忘れてしまうだろう。

 ――本当に俺のこと好きなの?

 二股男の言葉が不意に甦った。
 失恋の痛みを忘れてしまうということは、本当はそんなに好きではなかったからかもしれない……。いや、そんなはずはない。告白されたときは嬉しかったし、ふられたときは泣いたし、二股されていたと知ったときは怒りもした。
 別れ際に余計なことを言われさえしなければ、こうも心がささくれたように痛むことはなかったのに。
 静香は八つ当たりに、みっしりと敷き詰めたように落ちているイチョウの葉を蹴り散らした。夜の中に黄色い葉がいくつも小さく舞い上がる。それでも気持ちは収まらない。もっとたくさん蹴散らしたい気分になり、イチョウのそばへ行こうとして――足を止める。
「……あれ?」
 思わず声を漏らしていた。

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