スノースマイル【お試し版】
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 君は知っているだろうか。この世界のどこかに、冬に住まう少女がいるという事を。
 聞いたことがあるだろうか。そんな「冬の少女の物語」を。地球が季節と共に回るように、彼女は冬と共に世界を巡っている。
 彼女と出会った人は幸福になるという。険悪だった親子の仲が改善されるとか、仕事に運が向いてくるとか。近所で凶暴だと恐れられていた犬と仲良くなれるとか。大切な友達と仲直りできるとか。
 彼女のことを知っているのはごく少数だ。同じ冬のロマンである、サンタクロースとかクリスマスにはまるで敵わない。
 僕は知っている。なぜかって? そんなもの偶然に決まっている。宝くじと同じだ。ボクは彼女と出会った。でもそれは、誰だってそうだろう? ほんとうに、人生は宝くじに似ている。 
 少女は冬と共に現れ、冬と共に去っていく。地球が季節と共に回るように、彼女は冬と共に世界を巡る。
 彼女のことを知っているのはほんの僅かな人だけだ。同じ冬の世界を回る、サンタクロースとかクリスマスとはまるで違う。彼女は伝説じゃない。もちろん冗談でもない。確かに生きて、世界(ココ)にいるのだ。

 君は知っているだろうか?
 彼女と出会った人は幸福になるという。

 ――僕はそれが、嘘であることを知っている。

 1

 へんな雲が飛んでいる。黒くて、雲なのになんだかごつごつしていて、すごい速さで飛び去っていく。でも、つぎつぎと似たような黒くてごつごつした雲が左から流れてきて、ビルの向こうに消えていく。
 お日様は見えない。くろい雲の上を大きな灰色の雲が広がっていて、空を埋め尽くしているから。だから、まだ三時なのに辺りは暗いし、寒い。吐く息が白く、すぅっと空へとのぼって消えていく。これが雲を作るなら、きっと大勢の人が寒くてはぁ〜っと息を吐いているのだろう。
 もちろん、ボクは雲がそんなものだけで出来ていないことを知っているけど。
「……わっ、と」
 危ない。ぼーっと空を見上げていたら思わずひっくり返りそうになって、ボクは慌ててランドセルを背負いなおした。今日はちょっと、あれこれ欲張りすぎたみたいだ。はずみでずれたメガネを手で直す。
 ふぅ、と息がもれた。この二週間ばかりで少しは慣れて来たと思っていたけれど、ちょっと油断したらこれだ。図書室で面白いシリーズを見つけたからと、貸し出し限界まで欲張るんじゃなかった。
 座り込みたい気持ちを押さえ込んで、ボクは前を向く。だって歩かないと家には着けない。あたりまえだけど、それが今はちょっと大変だ。
 道は一直線に続いている。せめて途中で曲がってくれたり、坂になっていたり、あるいは階段とかがあれば多少は歩くのも楽しくなるかもしれない。けれど、こうも延々と信号も十字路も越えてただただ直線ばかりだと、まっすぐ前を向いて歩いていると途方も無さに暮れてげんなりしてしまう。ここまで来た苦労と、これからの苦労を重ねて、思わず座り込みたくなる。
 (覚えやすくって良いでしょ)
 ずっと前にそう言った母の声を思い出して、良いもんかとつぶやく。いくらボクだって、もうちょっとふくざつな道でも覚えられる。そんなことで喜んだのはせいぜい最初の三日ぐらいだったし、本当に嬉しかった理由は他にあった。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。指折り時間を数えて、もう引っ越して一年以上経ったのだと思い返す。もう前のマンションのことはあんまり覚えていない。今とは正反対の位置だし、そこに住んでいたのはそんなに長くなかった。その前のマンションなら、まだ思い出せる。いろいろと忘れてきているけれど、大きなお風呂とか、台所の位置とか、部屋がふすまで仕切られていて、夜こっそり隙間を明けてテレビを見たとか思い出せる。思えば、ボクの記憶はそのマンションから始まってさえいるのだ。
 ボクはまたランドセルを背負いなおした。今度引っ越すときは、もう少し学校から近いお家にしてもらえるだろうか。――あるいは。

 家のすぐ近くに公園がある。満足にキャッチボールも出来ないぐらいの小さな土地に、申し訳程度にすべり台と二台のブランコだけが置かれている。すべり台にはほとんど乗ったことが無いけど、ブランコにはよく乗った。足をぶらぶらさせたり、ゆらゆら揺れながら本を読むのが好きなのだ。今日もそのつもりだった。でも、先客がいた。 
 ボクは公園で立ち尽くした。ほぅと吐いた息が白く立ちのぼり、メガネを曇らせる。その向こうに、ボクは冬の妖精の姿を見た。ブランコが、風よりもほんの少しだけ強く揺れている。そこに少女は腰掛けていた。体は冷え切っていたけれど、不思議ともう寒いとは感じなかった。
 太い毛糸の赤いマフラーに、薄いピンクのコート。そのすそからマフラーと同じ色をしたスカートを覗かせていた。髪は白く、降り積もった新雪のように銀色に輝いている。
 ボクはふらふらと公園の中ほどまで足を進めた。少女はまるでボクに気づいたそぶりを見せなかった。期待と不安とがボクの中でうずまいていた。なにかの本にあったとおり、それまで信じてもいなかった運命に選ばれたとき、人は誰でもその思いを抱かずにはいられないようだった。
「……ねぇ、あなた。冬の少女って知ってる?」
 ボクは驚いた。少女の声が、ボクの好きな冬の透き通った空気のようだったせいもあるし、冬の少女という言葉にボクは確かに覚えがあったからだ。そして、その言葉があまりにも彼女にぴったりと当てはまったからだ。
 だから、ボクは知っていると答えた。
「ほんとうっ!」
 彼女はとても嬉しそうに笑って、勢いをつけてブランコから飛び降りた。そこはもうボクの目の前だった。それぐらい小さな公園だったのだ。
 間近で見た彼女の顔は、幼いようにも、ずっとずっと年上の人のようにも思えた。その瞳は、冬の空のような色をしていた。今日のような曇りではなく、澄んだ青空の色をしていた。
 小さな胸が偉そうにふんぞりかえり、その瞳があでやかに微笑んだ。ウチダくんにも襲い掛かったのだろう感動が、ようやくボクの胸にも広がった。ボクはいまこそ、本当に心のそこからウチダ君に謝りたいと思った。そして、一緒にこの目の前の彼女について語り合いたいと思った。それが出来たら、どんなに素晴らしいだろうと思った。けれども、もうウチダくんはいないのだ。
「あなた、運が良いわ。あなたはその、冬の少女の前にいるのよ」
 ボクはせめて自分も胸を張りながら、もう一度知っていると答えた。
 彼女はまた嬉しそうに笑って、
「そうね」
 と言った。
 その意味を、ボクは後に知ることになる。

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