Leeyaの妖精【お試し版】
 1
 
 目が覚めてもまだ、里弥(りや)はまどろみにひたっていた。身体はベッドで横になっているのだが、こころは砂浜に寝そべって波に洗われるように気だるい。身体が冷えていた。
 里弥は布団をかぶって胎児のように丸まり、拓馬のわき腹に額をくっつけた。規則的な寝息を感じながら今度は甘えるように頬をすりよせる。そうすると煙草と男の匂いが広がった。彼と初めて寝た時は息をとめるほど鼻についたが、三ヶ月の間に馴染んでしまった。
 拓馬が寝返りをして離れたので、里弥は布団から顔を出す。彼からただよう魔法の香りで目が冴えた。携帯を手にして時間を確かめると、水曜日の午後三時を過ぎている。携帯を戻し、シャンデリアのぶらさがる天井を見上げた。
 高校の同級生は授業を終えて掃除を始めた頃だろうか。
 そんな事を考えると胸に淋しさが募ってきたので、拓馬の背中に寄り添った。彼のぬくもりを感じていると落ち着く。理由は分かっていた。やさしい兄の記憶がよみがえってくるからだ。
「お兄ちゃん……」
 幼い頃はよく兄の布団にもぐりこみ、絵本を読んでもらってはそのまま眠っていた。懐かしい記憶。でも、あの頃には戻れない。高校生にもなって兄と一緒にいるのが恥ずかしいからではない。兄が、この世にいないのだ。
「お兄ちゃん……」
「ふーん」と、からかうような声が聞こえたのはその時だ。顔をあげると、目を覚ました彼がニヤついている。
「里弥はそういう設定が好きなのか」
「ち、違うの、さっきのはそういうつもりじゃなくて」
 顔を真っ赤にして否定しようとする里弥を、拓馬はそっと抱きしめる。
「いいんだ、気にするな。妹のようにかわいがってやるから」
 里弥は身体の力を抜き、「……うん」と応える。口もとをつり上げて笑みを浮かべた拓馬が、布団を払いのけ、上にのしかかってきた。
「もう一度、“お兄ちゃん”って言ってみろよ」
「え? ……うん、お兄ちゃん」
「りや」短く名を呼ぶと、熱い口付けをしてきた。胸をかくす里弥の手をつかんで頭上に持っていくと片手でベッドに押しつけ、空いた手で閉じた股に指を滑り込ませていく。じんじんとした痺れが里弥の意識を溶かし、体から力が抜けていった。
 
 
 気付けば退室の時間が迫っていた。シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かしていると、拓馬が振り返りながら言う。
「今度する時は制服を着たまましようぜ」
 またそれか、と思いながら困った顔をしていると、「いいだろ?」と、もう一度言ってきた。
「い、嫌だよ。汚れちゃうもん」
「そんなに嫌なのかよ。汚れないように気をつければいいだけだろ」
 声が荒くなっている。少し機嫌を悪くしたのがわかった。
「待ってよ。嫌だけど、しないとは言ってないじゃん」
「じゃあ、してくれるんだな」
 里弥はドライヤーを片手にしばらく黙ったが、「考えとく」と返事をしておいた。彼は兄のようにやさしい時もあれば、怖い時もある。あまり逆らいたくはない。なにより、彼に嫌われることが怖かった。里弥が兄の死を忘れていられるのも、彼が兄のように傍にいてくれるからだ。彼の気持ちが自分から離れたらと思うとぞっとした。
 里弥は髪を乾かすのもそこそこに身づくろいし、高校のブレザーに袖を通した。靴を履いた拓馬は、コートを着てさっさと部屋を出ていく。マフラーを巻いた里弥はカバンを手にして、暖房と明かりのスイッチを切って部屋を出た。
 ホテルのロビーを抜け、通りに出ると、十二月の冷たい風が吹いていた。まだ夕方の五時を回った頃だが、日は早くも暮れ、ホテルのネオンが煌々としていた。少し歩いて表通りに出ると、そこは本屋やレンタルビデオ店が並ぶ、どこにでもありそうな街の風景が広がっている。
 三人組の女子高生がコンビニの前で楽しそうに談笑していた。他校の制服で、里弥と同じ高一だろうか。どことなく中学生の雰囲気を残していて、スカートも膝まである。その横を通り過ぎていくと、前方に横断歩道が見えた。目指す駅は道を渡ればすぐそこだ。別れの時が近づくにつれて焦りが胸の中でふくれ、口を開かせた。
「ねぇ、今日は拓馬の部屋に泊まってもいい?」
「親が心配するだろ」
 やんわりと断られるが、家に戻りたくなくて食い下がる。
「私の親は、拓馬の親と同じだよ。学校サボってても何も言わないし、夕食も、最近はずっと別々だし……私がいなくても気付かないよ」
「でも、俺がダメだ。今日は大学のやつらが来るから」
 そう……、と気落ちしていると、肩を強く抱かれた。
「また今度泊めてやるよ」
 里弥は笑顔になり、「うん、絶対だよ」と言った。
 それから駅で拓馬と別れ、ひとり電車に揺られた。最寄り駅で降りてから足取りは重く、途中のコンビニでぼんやりと雑誌を眺めて帰ったので、家の前に着いた頃には七時をまわっていた。
 玄関に入ると仏間の明かりがついており、老けこんだ母の背中が見えた。
 娘が帰ってきたことにも気付かない母は、兄の仏前で一心に手を合わせていた。まるで兄の亡霊にすべてをささげる殉教者のようだ。だから夫が不倫をしていることに気付きもしないのだ。
 里弥は気付かれないうちに自室へと戻り、ドアを閉め、鍵もかけた。明かりをつけると、蛍光灯の白さが部屋をいっそう寒くさせた。
 里弥は机に近付き、そこに置いていた一冊の文庫本を手に取る。本のタイトルは『Leeyaの妖精』。雪を追いかけて異世界に迷い込んだ少女が妖精の王と結ばれるラブロマンスだ。
 半年前、小説に興味もない里弥が、兄から勧められるまま読み切った本でもある。最初はおもしろいのだろうかと半信半疑だったが、少女の不運な生い立ちに同情し、妖精王との恋にドキドキしてしまうと物語が止まらなくなった。夜遅くまで読みふけり、寝坊して学校に遅刻しそうになったほどだ。物語の興奮を早く兄に伝えたくて、授業が終わるとさっさと帰宅し、兄の部屋で待っていた。
 ところがその日、兄は帰ってこなかった。トラックに引きずられ、その場で息を引き取ったのだ。兄から借りた本は、返せないまま里弥の手許にある……
 母親のあんな姿を見てしまったせいか、兄の悲惨な死を思い出してしまった。
 少し大きめの口と、虫も殺せないような瞳で笑う兄の顔が、判別もできないほど路面に引きずられたことを、これからずっと忘れられないだろう。
 不意にこぼれてくる涙を指でぬぐい、掛け布団を頭まで被り、その日は夕食もとらずに眠った。

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