六枚の翼印【お試し版】
 世界には、“魔物”という存在がいる。
 様々な姿と能力を持つ、人を喰らい生きているモノ。
 そのため大抵の町は高い石壁と結界に守られており、普通に暮らしていれば町の外に出ることはほとんどない。
 もっとも畑や牧場などは石壁の外側にあるので毎日のように町の外に行く人もいるが、たいていはそこまで。町から町へ物を売り歩く商人や、魔物を倒すことを生業としている魔狩師でもなければ、畑から先に行くことはそうそうない。
 武器工房の娘に生まれたリディも、それは同じだった。
 店に来る魔狩師たちから魔物や遠くの町の話はたくさん聞いていたが、実際に見たことは一度もなかった。
 だからだろうか。七歳になる頃、すでにリディは外の世界に憧れていた。
 石壁を取り囲む畑。
 畑の先には鬱蒼と茂る緑の森。
 その向こうには見知らぬ町が数え切れないほどあり、砂漠や氷原など絵本の中でしか見たことのないような風景が広がっている。
 そう考えるだけでもリディはワクワクし、両親や祖父母に「町の外に連れて行ってほしい」と何度も頼んでいた。
 当然父は許してくれなかったし、顔をしかめた母からは魔物の恐ろしさについて耳が痛くなるほど聞かされた。兄と姉にもあきれられたが、
「もう少し大きくなったらな」
 祖父だけは、リディの頭をやさしくなでてくれた。
 それが、子供をなだめるための方便でないとわかったのは、リディが十歳になった時だった。
 リディの家の工房で作っているのは魔力を持った武器だ。
 これは特段めずらしいことではない。
 魔物の体は頑丈で傷もすぐに治ってしまうので、魔力を持たない普通の武器では倒すことは難しい。切れ味がいいだけでなく、炎や雷などの魔法を込めた武器は、他の町でも割とよく売られているそうだ。
 作り方は普通の武器とは違い、熱した金属を叩くだけではない。材料も特別な物がいくつか必要で、町に来る商人から買うこともあるが、他の町に仕入れに行くことの方が多かった。
「そろそろいいだろう」
 いつものように町の外に行きたいとせがむリディに、祖父は今度の仕入れに一緒に連れて行くと約束してくれた。
 最初は家族全員が大反対だったが、
「いずれリディもこの工房を支える一人となる。今のうちから仕入れの様子を見せておいてもいいだろう」
 祖父にそう諭され、しぶしぶ許してくれた。
 もちろん祖父とリディ二人だけの旅ではない。町の外には魔物がいるし、荷物の積み下ろしの手も兼ねて、魔狩師を何人か雇うのが普通である。今回の旅では七人。普段よりも人数が多いのは、リディの身の安全を考えた結果だった。
 おかげで、何度か小さな魔物に襲われたものの、予定どおり五日後に目的の町に到着したリディたちは何事もなく帰途についた。
 普段から町を行き来している者には、短くてつまらない旅だっただろう。
 けれど、リディにとっては初めての旅。
 どの町も大して違わないはずなのに見る物すべてが新鮮に感じ、帰り道――しかも町まであと少しというところまで来ても、リディの興奮はおさまらなかった。
 あれがすごかった、これがすごかったと祖父に大声で話し続ける姿は、旅慣れた魔狩師たちにはおかしかったようで、笑いをこらえ切れない者もいた。リディもそれに気づいてはいたが、自分の口を止めることはできなかった。
 リディのおしゃべりを止めたのは、一人の魔狩師が発した低く鋭い声だった。
「止まれ」
 先頭を歩いていた男がそう言っただけで、他の魔狩師の雰囲気が変わった。それぞれが腰に下げた剣に手をかけ、緊張した面持ちで周囲に視線をめぐらす。
 張り詰めた空気に、荷馬車の御者台にいたリディは思わず祖父にすがりついた。手綱を引いて馬を止めた祖父の手もわずかに震えている。
 行きにも何度か同じことがあったので、子供のリディにも何が起きたのかすぐにわかった。
 魔物が現れたのだ。
 だが、辺りを見回しても異形の姿はどこにもない。荷馬車の周りにいるのは護衛の魔狩師たちだけで、道の左右に広がる森の中にもあやしい影は見当たらなかった。
「どこだ?」と目を動かす魔狩師たちに、先頭の男は道の少し先をあごで示した。
 そこには何もいないように見えた。
 あえて言えば、石畳で舗装された道の脇に小さな木が生えているだけ。
 リディの背よりも低い木で、茶色い幹からは黄緑色の細い枝が何本も出ている。枝には針のような細長い葉っぱの他に、きれいな赤い花をつけていた。
「あの木がどうかしたか?」
「行きにここを通った時、あんな花が咲いているのを見た覚えがない」
 リーダーに聞かれ、男はそう答えた。仲間の女があきれたように声を上げる。
「だから何よ。ここを通ったのは十日も前よ。その間に咲いたんでしょ」
「だが、他に花が咲いている木がない」
 言われてみれば、赤い花が咲いているのは一本だけ。つぼみをつけている木もないし、同じ形の葉も見当たらない。
 それでもリディには普通の木にしか見えず、他の魔狩師たちもそう思ったはずだが、
「あれがただの木だったら、今日の晩飯はお前のおごりでいいな」
 リーダーの言葉に、男はうなずいた。
 「シェイ」とリーダーに名前を呼ばれた魔狩師が剣を抜き、先頭にいた男とともにゆっくりと若木に近づいていく。
 他の魔狩師たちもそれぞれ武器を構えて見守っていたが、全員が黙っていたわけではなかった。
「本当に魔物なの?」「擬態している可能性もある」「それにしても小さいな」「一匹だけか?」
 小声で交わされる会話は、馬車の上にいるリディの耳にも入っていた。
(他にも魔物がいるの?)
 わき上がる不安に、恐る恐る周囲を見回す。同じような高さの木は何本もあるが、針のような葉は見当たらない。
 ホッと胸をなで下ろしたかけたが、
「…………え?」
 すぐ横にある大きな木を何気なく見上げ、リディは自分の目を疑った。座っていた御者台から思わず腰を浮かせる。
 そこにあるのは、よく知っている木のはずだった。
 町の広場に何本も植えられていて、春になると真っ先に花が咲くので「春告げ」とも呼ばれている木だ。
 花の時期はすでに過ぎ、今は丸い葉が青々と茂っている。
 その葉が、動いていた。
 風に揺れているわけではない。
 葉の一枚一枚がするすると丸まり、まるで針のように先を尖らす。でこぼこした木の表面がなめらかになり、黄緑色の枝は徐々に白色へと変わっていく。
(……まさか、魔物?)
 すくんで声も出なかったが、リディの様子に気がついた魔狩師が大声で叫んだ。
「おい! この木を見ろ!」
「ちょっと、こっちの木も変よ!」
 魔狩師たちの声が重なる。
 見ると、周囲に十本ほど生えていた小さな木が、すべてその姿を変えようとしていた。
 葉は針のように尖り、真っ直ぐ上に伸びていた細い幹は大きく曲がり、かぎ針みたいに梢を地面に向ける。
 そして、根元の土がボコリと浮き上がった。割れた地面の中から、大きな白い芋虫に似た生き物が這い出してくる。
 かぎ針のように曲がった木は、魔物の体とつながっていた。その姿はサソリに似ているが、白い芋虫の体から木のような尾が生えたその姿は、とても同じ世界の生き物とは思えなかった。
 そんな気味の悪い魔物が、あちこちの地面の中から姿を現す。
 ――囲まれた。
 そう判断した魔狩師たちの動きは素早かった。
 行く手を塞ごうとする魔物に向かって数人の魔狩師が駆け出す。それとほぼ同時に別の魔狩師が馬の尻を叩く。
 驚いた馬は走り出し、祖父と護衛一人を乗せた荷馬車は、魔物に斬りかかる魔狩師たちの横を通り過ぎていった。
 ひとまず依頼主を魔物から遠ざけようとしたのだ。守りながらでは戦いにくいし、町まではあと少し。護衛が一人ついていれば何とかなると踏んだのだろう。
 しかし、戦いに慣れた魔狩師たちにも誤算はあった。
 馬車が急に走り出したせいで、半分立ち上がっていたリディがバランスを崩し、御者台から転げ落ちたのである。
 近くにいた魔狩師に抱き留められてケガはなかったが、荷馬車はすでに走り去った後。しかも数匹の魔物が道をふさいでしまったので、町の方には逃げられそうもなかった。
「さっさと行け!」
 リーダーの声に、リディを抱きかかえた魔狩師の腕に力がこもる。魔物と戦う仲間たちの背中を少しの間だけ見つめ、
「しっかりつかまっていろ」
 そう言うと、彼はリディを抱えたまま町とは逆の方向に走り出した。
 あっという間の出来事に、リディは魔狩師の肩越しに遠ざかる景色をただ呆然と見つめていた。
 十匹近い魔物に囲まれながらも、魔狩師たちは果敢に剣を振るっている。だが、その剣をかいくぐり、三匹の魔物がリディたちの後を追ってくる。
「来たか」
 ちらりと後ろを確認した魔狩師が、忌々しげに呟く。
 しかし、幸いなことに魔物の足は遅かった。体の両脇から生えた何本もの触手を絶え間なく動かしているが、魔物との距離は徐々に広がっていく。ひょっとすると、リディの足の方が速いかもしれない。
(あたし一人で逃げれば……)
 そう考えかけ、リディはあわてて魔狩師につかまる手に力を込めた。
 魔狩師たちの負担になっているのはわかっていた。自分がいなければ彼は仲間と一緒に魔物と戦えるだろう。
 けれど、もし一人になったところを魔物に襲われたらと思うと、リディは手を話すことができなかった。
「あれは……」
 ふいに魔狩師の足が遅くなった。前を見ると、山のように荷物を積んだ荷馬車がやって来るのが見える。向こうもすぐに気づいたようで、荷馬車は足を止めたリディたちの目の前で止まった。
「頼む。手を貸してくれ……魔物に追われていて、他にも何匹かいるんだ!」
 魔狩師が息を整えながらそう言うと、御者台にいる二人の男は困ったように顔を見合わせた。
「そう言われてもな」
「俺たちはただの引っ越し屋だし」
 よく見れば、二人とも体は大きいが剣や鎧は身に付けていない。
「だったら魔狩師はどこにいるんだ?」
 御者の二人がただの運び屋なら、護衛は他にいるはず。それなのに馬車の周りには御者以外に誰もいない。
「魔狩師なら、いないよ」
 女の声が上から聞こえてきた。
 荷台で山になっている家具や荷物を見上げると、頂上に積まれたベッドの上から眼鏡をかけた女性が顔を覗かせていた。
 歳は三十代半ばぐらい。なかなかの美人だが、寝ていたのか表情はどこか眠そうで、後ろでまとめている長い黒髪も半分崩れかかっている。
「あんたがこの馬車の持ち主か?」
「いいや。私はこの荷物の持ち主さ。で、馬車はそっちの二人の物」
「他には誰もいないのか?」
「見ての通り。私ら三人だけさ」
 まさか護衛がいないとは思ってもみなかったのだろう。魔狩師の顔はみるみるうちに青ざめる。
 追ってくる魔物は三匹。
 それに対し、戦えるのは一人だけ。
 リディには彼が四人全員を守りきれるとは思えなかったが、
「だったら早く逃げろ! もうすぐここに魔物が来る!」
 魔狩師は表情を引き締めると、リディの背中を軽く押した。
「魔物は俺がここで食い止める。だから、頼む。この子を連れて逃げてくれ!」
「その必要はないよ」
 魔狩師の言葉を遮るように、女が積荷の上から飛び降りた。白い薄手のコートの裾をひるがえし、ほとんど音を立てずに着地する。
「魔狩師はいないが、符術師ならここにいるんでね」
「お客さん! 来ましたぜ!」
 御者の慌てた声に、リディは来た道をふり返った。引き離したはずの魔物が三匹ともすぐそこまで迫っている。
 魔狩師は舌打ちし腰の剣を抜くが、
「私に任せな」
 女は悠然と馬車の前に進み出た。その手には長方形の紙の束が握られている。
 複雑な紋様と古代文字が描かれている紙が何かはリディも知っていた。
 魔術が込められた呪符である。
 黒髪の女は紙束から呪符を何枚か引き抜くと、軽く端をつかんだまま前に向けた。
「翔」
 彼女が言うと同時に、呪符が宙を飛んだ。風を切りながら一直線に飛び、魔物たちの体に張り付く。
「油炎」
 呪符が勢いよく炎を上げた。橙色の炎はみるみるうちに広がり、魔物の全身を包み込む。三匹の魔物はしばらくその場で転げ回っていたが、やがて力尽きたのか動かなくなった。
「倒したの……?」
 あっという間の出来事に、リディは安堵するよりも先に驚いていた。
 リディにも、呪符の知識は少しだけあった。父に習い始めたばかりだが、どんなものかは店の客から聞いた話や本で知っているつもりだった。
 魔物の動きを止めたり、魔物の死骸を焼き払ったりと、戦いの手助けをするのが符術を使う者の役割だと思っていた。それに、魔物を一撃で倒すほど強い魔術を呪符に込めるのはかなり難しいと聞いている。
 それをこの女の人は……。
 思わず彼女に駆け寄ろうとして、隣にいた魔狩師に止められた。不思議に思って見上げると、彼は厳しい表情のまま前を向いている。
 その時になって、リディはようやく気がついた。
 悲鳴混じりの叫び声と、地響きに似た音が徐々に近づいてくることに。
「お、お客さん! あれ、あれ!」
 最初に見つけたのは、御者の二人だった。
 ふるえる手が指さす先に、こっちに走ってくる人たちの姿があった。彼らの顔はリディも知っている。さっきまで一緒にいた、護衛の魔狩師たちだ。
 そして、彼らの後ろには大きな魔物が迫っていた。
 姿形はさっき呪符で倒された魔物と同じだが、その体は荷馬車よりも一回り大きく、木にそっくりな尾も二メートル以上ある。
 体の脇でうごめく触手も長く、必死で走る魔狩師たちにもう少しで追いつきそうな勢いだった。
「あそこまで大きいと、〈油炎〉だけで焼くのは無理だな」
 そう呟くと、符術師の女は束にして持っていた呪符を地面にばらまいた。コートのポケットから一回り大きな呪符を取り出す。
「外殻形成、形状猛禽……」
 言葉とともに、彼女が持つ呪符が橙色に輝き出す。
「……双翼為飛、属性喰肉、添加油炎……」
 地面に散らばっていた呪符も橙色の光を放ち、宙に舞い上がる。竜巻に巻き込まれたように円を描きながら、数十枚の呪符は光とともに一つの姿を作り上げた。
「……呪式構築、具現〈炎鳥〉!」
 リディたちの前に姿を現したのは、橙色の炎でできた鳥だった。翼を左右に広げたその大きさは、道をふさぐほどある。
「行け」
 黒髪の女に命じられるまま、炎の鳥は魔物に向かって飛びかかった。大きな足の爪で押さえ込み、鋭いくちばしで魔物の体をついばむ。
 魔物は逃れようと身をよじるが、鳥が発する炎が体に燃え移り、徐々にその動きを鈍らせる。まだ死んだわけではなかったが、リディの目にも勝敗はすでに明らかだった。
「すごい……」
 今まで知らなかった呪符の使い方に、リディは胸が高鳴るのを感じていた。
(呪符でこんなこともできるの?)
 驚きながら黒髪の女に目を向ける。
 その時、リディは彼女の右手首にある刺青に気づいた。
 ――六枚の翼。
 三対の橙色の翼は、符術師や魔器職人に与えられる最高位の証である。

 あれから四年。
 リディはずっと彼女に憧れ続けている。

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